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小松亀一法律事務所は、「相続家族」問題に熱心に取り組む法律事務所です。

遺言書

禁治産者老人のした公正証書遺言を有効と認めた判例紹介1

○禁治産宣告を受けた老人のした公正証書による遺言について、遺言能力を欠いていたと認めることができないとして、これを有効と判断した平成9年5月28日名古屋高裁判決(判タ960号249頁、判時1632号38頁)を2回に分けて紹介します。

○事案は、次の通りです。
・被相続人Aは、昭和58年3月、その所有する財産全部を二女Yに相続させる旨の公正証書遺言(以下「第一遺言」という。)をした
・Yは、昭和63年9月、A所有本件不動産について相続を原因とする所有権移転登記を経由した
・Aは、昭和59年4月、禁治産宣告審判を受け、同年7月確定していた
・Aは、昭和59年11月、その所有する財産全部を包括して妻であるBに相続させ、Bを遺言執行者に指定する旨の公正証書遺言(以下「第二遺言」という。)をした
・Bは、昭和63年10月、第二遺言に基づき、遺言執行者として、Yに対し、右所有権移転登記の抹消登記手続を求めて本件訴えを提起
・Bが平成2年9月、死亡したため、Xは、遺言執行者に選任されて、訴訟を承継した。
・Yは、Aが第二遺言をした当時、多発性脳梗塞に基づく痴呆の状態にあり、遺言能力を欠く状態にあったので、第二遺言は無効であるなどと主張
・一審は、Aの遺言能力及び第二遺言の有効性を肯定し、Xの本訴請求を認容し、Yが控訴


○Yは、第二遺言は、遺言能力を欠いた状態でなされた無効なものであるなどと主張しましたが、本判決は、Aの知的能力は、正常人よりは劣るものの、物事の善悪を判断し、これに対応した行動をとる程度には達していたと解され、これに全財産をBに遺贈するとの第二遺言の内容が比較的単純なものであることをも考慮すると、Aは、法律的な側面も含めてその意味を認識していたものと認めるのが相当であるとしたうえ、第二遺言当時、遺言能力を欠いていたと認めることはできないと判断し、本訴請求を認容した一審判決を支持して、控訴を棄却しました。

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主  文
一 本件控訴を棄却する。
二 控訴費用は控訴人の負担とする。

事実及び理由
第一 当事者の求めた裁判

一 控訴人
1 原判決を取り消す。
2 被控訴人の請求を棄却する。
3 訴訟費用は、第1、2審とも被控訴人の負担とする。
との判決を求めた。

二 被控訴人
 控訴棄却の判決を求めた。

第二 事案の概要
 本件は、亡甲野A(以下「A」という。)の所有していた不動産について、Aの二女である控訴人が相続を原因とする所有権移転登記を経由したのに対し、公正証書遺言によって全財産の遺贈と遺言執行者の指定を受けた妻(その死亡に伴い、被控訴人が訴訟を承継した。)が右登記の抹消登記手続を求めたもので、Aの財産の帰属を巡って親族間に生じた一連の紛争の一つである。
 控訴人は、右公正証書遺言の効力を争ったが、原審はその有効性を肯定し、被控訴人の請求を認容した。

一 当事者間に争いのない事実(明らかに争わない事実を含む。)
1 Aは、原判決添付物件目録(一)①ないし⑭記載及び同(二)①、②記載の各不動産(以下、それぞれ「本件(一)土地」、「本件(二)土地」という。)を所有していた。

2 Aは、昭和56年11月30日、糖尿病と診断され、昭和57年2月、藤田学園保健衛生大学病院(以下「大学病院」という。)にて白内障の手術を受けた。

3 Aは、糖尿病治療のため大学病院に通院中であった昭和57年8月6日、第一回目の脳梗塞発作を起こし、同月9日、大学病院に入院したが、同年12月21日、退院した。

4 名古屋法務局所属公証人白川芳澄は、昭和58年3月8日、Aを遺言者とする昭和58年第95号遺言公正証書(以下「第一遺言証書」といい、その内容を「第一遺言」という。)を作成しているところ、同証書には、「Aは、その所有する財産全部を控訴人に相続させる。」旨の記載がある。

5 Aは、昭和58年9月26日、心不全を起こして大学病院に第二回目の入院をしたが、同年11月24日に実施されたCTスキャナー検査の結果、Aが再度脳梗塞を起こしていることが判明した。

6 Aの妻である甲野B(以下「B」という。)、長男である甲野C(以下「C」という。)外5名は、昭和58年10月21日、Aに対する禁治産宣告を名古屋家庭裁判所岡崎支部に申し立てた。そこで、同支部から精神鑑定を命ぜられた医師F(以下「F医師」という。)は、昭和59年3月9日、Aに面接した上で、Aは心神喪失の常況にあるとの鑑定結果を提出し、これに基づいて、同支部は、同年4月7日、Aを禁治産者とする旨の審判をし、同審判は、控訴人らの不服申立てを経て、同年7月19日、確定した。

7 名古屋法務局所属公証人西川豊長は、昭和59年11月12日、Aを遺言者とする昭和59年第1797号遺言公正証書(以下「第二遺言証書」といい、その内容を「第二遺言」という。)を作成しているところ、同証書には、「Aは、その所有する財産全部を包括して妻であるBに相続させる。Aは、Bを遺言執行者に指定する。」旨の記載がある。

8 Aは、昭和63年9月13日、腎不全を直接原因(その原因は糖尿病、脳梗塞)として死亡した。

9 控訴人は、第一遺言に基づき、本件(一)土地につき名古屋法務局豊田支局昭和63年9月13日受付第32295号をもって、本件(二)土地につき同法務局鳴海出張所同日受付第20593号をもって、それぞれ同日相続を原因とする所有権移転登記(以下「本件登記」という。)を経由した。

10 Bは、昭和63年10月6日、本件第二遺言に基づく遺言執行者として、控訴人に対し、本件登記の抹消登記手続を求めて本件訴えを提起したところ、同女は、平成2年9月7日、死亡したので、名古屋家庭裁判所岡崎支部は、同年11月14日、Cの申立てにより、被控訴人を第二遺言の遺言執行者に選任した。

             (中略)

四 争点に対する判断
一 争点1について

1 第二遺言に至る経緯について
(一) 当事者間に争いのない前記の事実に、証拠(甲第二号証の一ないし16、第八号証、第12号証、第13号証の一ないし五、第14号証の1、2、第18号証の一ないし2五、第19、20号証、第21号証の1、2、第22、23号証、第24号証の1、2、第25号証、第27号証、第30号証、第33号証、第35号証、第36号証の一ないし五、第37号証の一ないし三、第38号証の一ないし5、第40号証、第42ないし第44号証、第45号証の一ないし七、第48ないし第61号証、乙第六号証、第10ないし30号証、第44ないし第46号証、第48ないし第52号証、第54ないし第59号証、第65ないし第69号証、第71号証、第76ないし第87号証、第90、91号証。ただし、甲第20号証、第22号証、第27号証、第30号証、第48ないし第55号証、第60、61号証及び乙第54ないし第59号証、第76ないし第87号証、第90、91号証については、認定事実に反する部分を除く。)並びに弁論の全趣旨を総合すると、次の事実が認められる。

(1) Aは、昭和25年8月ころ、愛知県愛知郡豊明村(現在の豊明市)にて水道工事業を営んでいた実家を異母弟の晴昭に委ね、自らは実家を出て、上郷村(現在の豊田市上郷町)にて水道工事業を始めた。その後、Aは、妻であるBの助力もあって、次第に右事業を順調に発展させ、昭和43年8月7日には、本件会社を設立して法人組織で仕事をするようになった。その当時の本件会社の役員は、代表取締役であるA、取締役であるB、C、一代によって構成されており、控訴人は、未だ若年であったため、直接には右事業に関与することはなかった。
 ところで、Aは、何でも自分の意思を通さずにはいられないワンマン的性格で、特に金銭や財産については他人の容喙を許すことはなく、妻であるBに対してすら、自由になる金銭をほとんど持たせないほど徹底していた。また、受注先の大部分が官公庁であった関係で、仕事については責任感が強くかつ几帳面であるが、他人との協調を顧ない頑固さがあった外、女性関係にややルーズで、家庭内がもめることがしばしばあった。

(2) Cは、小学6年生のころからAの手伝いをすることがあったが、高校時代には、現場に出て仕事を手伝うようになり、昭和39年春に高校を卒業した後は、Aの下で従業員として稼働し始めた。しかし、前記のような性格であったAにとって、やや几帳面さを欠くCの仕事ぶりは満足できるものではなかった。

 また、Cは、かねてよりDと交際していたところ、昭和46年初めころ、同女との結婚の希望を表明したが、Aは、豊田市挙母町にあった土着信仰である「庚申さん」の占いの結果を信じてこれに強く反対し、いったんはDとの交際を断つことを約しながら密かにこれを続け、自分の勧めた縁談を断ったCに対して不快感を募らせた。
 これに対し、Bは、Cの立場に同情し、Aに内密で相談を受けたりしていたので、Aは、Bに対しても立腹することがあった。その反面、Aと控訴人との仲は緊密さを増していった。

(3) 勉は、工業高校を卒業した昭和43年3月から、それまでアルバイトをした経験のある本件会社に入社し、勤め始めたが、やがて控訴人と恋愛関係に入り、昭和47年12月15日、Aの知人で市会議員をしていたE夫婦の仲人で挙式した。その際、勉が長男でなかったことと、Aが勉の仕事ぶりを評価し、将来の事業後継者として控訴人夫婦が想定されたことなどの理由で、勉は甲野姓を名乗り(入籍は昭和48年6月13日)、Aらと同居生活を送るようになった。
 他方、Cも、昭和48年5月7日、E夫婦の仲人でDと挙式した(入籍は昭和49年3月12日)が、Aの事業後継者が控訴人夫婦とされた関係で、Cについては折を見て新家を建てることとされ、本家から500メートルほど離れた社宅から本件会社に通勤することとなった。

(4) Bは、従来から、頑固なAとの仲がしっくりいかなかったところ、昭和48年6月ころ、そのワンマン的言動に耐えきれず、Cの手助けで実家に帰った。この時は、Bの実母らが仲裁に入り、同年9月9日ころ、C及びBが、Aの事業の後継者は控訴人夫婦であり、C及びBはAに迷惑をかけたことを謝罪する旨記載された控訴人の起案にかかる誓約書に署名指印することにより、紛議は一応納まった。
 しかし、Cは、その後も仕事を巡ってAと衝突することがあり、昭和48年末ころ、本件会社の勤務をやめ、生命保険会社の外交員として稼働することになったが、半年ほど経過したころ、Aの指示で本件会社に復帰した。ところが、Cは、昭和53年ころ、再び仕事の上でAと衝突し、前記社宅を出て県営住宅に移るとともに、トラック運転手として稼働するようになった(同年6月21日付けで本件会社の取締役辞任登記がなされている。)が、昭和56年8月ころ、Aの指示で、三度、本件会社に復帰することとなった。

(5) 控訴人は、前記のとおり、A夫婦と同居生活を送っていたところ、昭和56年7月末ころ、Aの女性関係を巡って口論となり、家族ともども小牧市に転居することになり、勉も本件会社をやめて別の仕事に従事することとなった。もっとも、右転居後しばらく経過すると、Aは、時々、控訴人方を訪れ、勉と仕事の話をすることがあった。

 ところで、Aは、昭和57年1月中ころ、糖尿病を原因とする白内障により、視力が著しく落ちていたために、僅かなことで怒りやすい精神状態に陥っていた。Bは、このようなAと生活するうち、ノイローゼ状態になり、Cの勧めで3日間ほど静養のためにC宅に引き取られた。その間、DがAの世話をすることになっていたが、Aはこれが気に入らず、受け入れようとはしなかった。
 控訴人は、同月18日、用事でAを尋ねてきて、同人が一人で不自由しているのを見つけ、話し合った結果、勉が本件会社に復帰し、Bをその取締役の地位から外すことなどで合意した(Bについては、同月26日付けで本件会社の取締役退任登記がなされ、これと入れ替わりに勉が取締役に就任した旨の登記がなされている。)。そして、勉は、それまでの仕事の整理がついた同年3月ころ、本件会社に復帰し、稼働し始めた。

(6) Aは、昭和57年2月ころ、大学病院にて白内障の手術を受けて視力を回復し、以後、糖尿病治療のため、同病院に通院するようになったところ、同年6月ころ、家庭内の紛議を解決すべく親族会議が開かれた。
 同会議には、B、C、控訴人、一代、晴昭、キク、大岡夫妻らが出席したが、一代が、Aの事業の後継者は控訴人夫婦とし、Cに対しては新家を作ってやることを提案し、Aも新家を作ってやることに前向きの発言をしたので、Cは、気軽に実家に立ち寄れないような状態では承服できないとの留保付ではあったものの、右提案を概ね受け入れる態度を示した。