○「
過去5年間扶養料求償を認めた昭和61年9月10日東京高裁決定全文紹介」を読んだ方から、「
扶養期間が重要だとする5年間超えの判例をご存知でないでしょうか?」との質問を受けました。色々審判例を探していたら、なんと15年分以上遡って過去の扶養料請求が認められた 昭和52年3月22日大阪家裁審判(家庭裁判月報29巻9号93頁)が見つかり、全文を2回に分けて紹介します。
○事案は、精神病にかかつた事件本人(実姉)をその夫(相手方)の要請により引取り長期間にわたり扶養してきた申立人(事件本人の弟)が、過去の扶養料約289万円を請求し、配偶者である相手方は弟である申立人に先んじて扶養義務を尽すべきものではあるが、その負担額は資産収入等から考えられる最大限度の額にとどまり、それを超える部分はその他の親族による扶養あるいは公的扶養に待つほかはないものとして、いわゆる労研方式により算出した約161万円を相手方の負担能力の範囲内で請求を認容したものです。
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主 文
相手方は申立人に対し、申立人が相手方のために立替えて支払つた事件本人の昭和34年6月から昭和50年1月までの間の扶養料計金150万7915円を支払え。
理 由
第1 申立の趣旨と事件の実情
申立人は、申立の趣旨として「相手方は申立人に対し、申立人が立替えた事件本人の扶養料金等289万0409円を支払え」との審判を求め、事件の実情として、次のとおり主張した。
1 相手方は昭和31年1月12日事件本人と婚姻し、両者の間に三男二女が出生した。申立人は事件本人の弟である。
2 事件本人は昭和34年3月精神病に罹り、堺市000病院に入院したが、同年6月退院した。その直後申立人は相手方の要請に基づいて、事件本人を沖縄に住んでいた申立人の許に連れ帰り、医療に努めた結果、回復したので、同年12月相手方の許に帰らせた。
3 相手方は昭和37年7月事件本人の病気がまた悪くなつたからと云つて、事件本人を何の前ぶれもなく乳児の二女栄子とともに申立人の許に送り帰した。申立人は事件本人を一週間程、△△病院に入院させ、その後は申立人宅において療養させた。
4 相手方は昭和38年7月事件本人の帰宅を求めて来たので、旅費等をすべて、申立人が立替えて帰宅させたが、昭和39年8月申立人に対し「政子××丸に乗つた。迎え頼む」との電報を打ち、一方的に政子を申立人の許に送り帰した。申立人はやむなく昭和44年7月事件本人を相手方の許に帰らすまで、××病院に入院させたり、通院治療させたりした。
5 相手方は昭和44年7月以降事件本人に必要な医療を加えないばかりでなく衣食も満足に与えず虐待し、生命に危険が生じたので、申立人は相手方と協議のうえ、事件本人を昭和46年7月24日神戸市00区×××通0丁目0の0所在の△△サナトリウムに入院させた。
6 相手方は、上記病院に一度も面会に来ず、仕送りもしないので、申立人は昭和49年12月19日事件本人を退院させて申立人の郷里である沖縄に連れて帰り、爾来今日まで申立人において医療及び扶養を続けている。
7 上記△△サナトリウムに入院中の昭和47年9月16日から昭和49年12月19日までの間は医療保護を受けていたので申立人は金銭上の立替えをしなかつた。
8 事件本人の前記△△サナトリウムにおける入院治療費、沖縄における医療費・生活費は上記7を除いて、すべて相手方が夫として当然負担すべきものを、相手方の要請に基づいて、申立人が立替えて支払つたものである。相手方は十分支払能力を有するのに、全期間を通じて昭和42年6月申立人に対し事件本人の扶養料として1万円を支払つただけである。
9 申立人が事件本人の生活費として立替えた額は次のとおりである。
労働科学研究所の昭和27年の軽作業壮年男子の最低生活費は月額7000円であるから、これに主婦の消費単位である80%を乗じて算出された5600円が昭和27年における主婦の最低生活費である。これを各年度の消費者物価指数によつて計算すると、
昭和34年 6389円
〃 37年 7451円
〃 38年 8013円
〃 39年 8316円
〃 40年 8958円
〃 41年 9414円
〃 42年 9878円
〃 43年 1万0302円
〃 44年 1万0850円
〃 46年 1万2392円
〃 47年 1万2953円
〃 49年 1万8010円
である。これを申立人が事件本人を扶養した期間によつて計算すると
昭和34年3月~同年12月 (九か月) 5万7501円
〃 37年7月~昭和38年7月 (13か月) 10万0797円
〃 39年8月~〃44年7月 (60か月) 58万0154円
〃 46年7月~〃47年9月 (14か月) 17万8537円
〃 49年12月~〃50年12月 (12か月) 21万6120円
計 113万3、109円
となるが、これは最低生活費であつて、妥当な額はこの2倍と思われるので、これに2倍すると226万6218円となり、これが、申立人が立替えた事件本人の生活費である。
10 申立人が立替えた事件本人の医療費等は次のとおりである。
イ 沖縄における入院治療費等 18万0000円
ロ △△サナトリウム入院費 25万4191円
ハ その他 20万0000円
計 63万4191円
11 そこで、相手方は申立人に対し、上記9及び10の立替金合計金290万0409円から、相手方が支払つた1万円を差引いた残金289万0409円の支払義務がある。
第2 適用法令
申立人の本籍地である沖縄県は、平和条約発効の昭和27年4月28日以来、日本復帰の昭和47年5月15日の前日までの間においては、アメリカ合衆国の施政権に服していたものであるから、昭和32年1月1日以降においては、本件に関係のある日本民法等がそのまま同じ文言をもつて施行されていたとはいえ、事件本人や相手方の本籍地である大阪府とは法域を異にしていたものということができる。扶養の義務は法例21条によつて、扶養義務者の本国法によつて定められるのである。本件において問題とされているのは、昭和34年以降の扶養料の立替金についてであるから、上記施政権がアメリカ合衆国にあつた期待も含まれている。施政権が返還された以降の分については、日本の法によることはいうまでもないところであるが、それ以前の分については、同文とはいえ、観念的には、申立人については沖縄県の法が、相手方については日本の法が、それぞれ適用されるものといわなければならない。(然し、文言を同じくするものであるから以下に説示する法条は日本のそれによるものとする。)
第3 本件の性格
本件は上記申立の趣旨及び事件の実情その他調査の結果からして、申立人が民法878条及び同879条に基づいて、事件本人の過去の扶養料についてではあるが扶養義務者である申立人と相手方との間において扶養の順序並びに程度についても当裁判所の判断を求め、(若し申立人が相手方に対し、契約に基づいて、申立人が支出した事件本人の扶養料を請求するのであれば、それは訴訟事項であつて、家庭裁判所の権限外の事項である)。家事審判規則98条49条に則つて、相手方に対し、立替扶養料の支払を命ずる申立をしたものと解する。
第4 事件の経緯
申立人は昭和50年12月25日当裁判所に対し、上記申立をした。当裁判所は、昭和51年2月2日これを当裁判所の調停に付し調停が終了するまで審判手続を中止する旨の審判をした。当裁判所調停委員会は昭和51年3月3日から同年5月10日までの間四回に亘つて調停を試みたが、当事者間に合意が成立する見込みがなかつたので、不成立として調停事件を終了させた。そこで本件審判手続が再開されたものである。
第5 調査の結果によれば、親族関係について次の事実を認めることができる。
1 申立人は事件本人の弟である。事件本人の父は昭和18年9月6日死亡したが、母光(明治41年7月30日生)は生存しており、事件本人の兄弟姉妹は、申立人の外に、姉幸子(大正15年3月14日生)、妹良子(昭和9年12月24日生)、弟正利(昭和13年4月12日生)がいる。
2 相手方と事件本人とは昭和29年相手方の肩書住所である大阪市00区××△丁目△番△△号で同棲を始め昭和三一年一月一二日大阪市〇〇区長に対し婚姻の届出をして夫婦となつた。当時は相手方の父信彦、母ナツも同居していた。相手方と事件本人との間に、昭和30年8月1日長男信茂が、昭和31年9月2日二男信武(昭和32年3月14日死亡)が、昭和32年12月24日三男信宗が、昭和35年3月19日長女ノブ子が、昭和36年11月9日二女栄子が各出生した。
父信彦は昭和35年に、母ナツは昭和46年7月4日に死亡した。
第6 上記親族関係によれば、申立人は事件本人の弟であるから、民法877条によつて、事件本人を扶養する義務があるものということができる。相手方は事件本人の配偶者であるから、民法760条によつて事件本人を扶養しなければならないものである。事件本人に対する申立人と相手方との扶養義務の順序は、相手方が事件本人の配偶者であるとの身分関係から申立人に先んじて扶養義務を尽さなければならないものと解する。然しながら、相手方がその負担能力に拘らず、事件本人が必要とする経費のすべてを負担しなければならないものではなく、相手方の負担額は、その資産収入等から考えられる最大限度の額に止まり、それを超える部分は申立人等の扶養或は公的扶養に待つほかはないものと解する。
第7 調査の結果によれば、次の事実が認められる。
1 事件本人と相手方とは、共に沖縄県××郡000村の出身で、事件本人の祖母と相手方の母ナツとは姉妹の関係にあつたので、事件本人と相手方とは昭和29年見合の上、結婚することとし、前記のように大阪市00区××△丁目△番△△号の相手方の住居で同棲を始め、昭和31年1月12日婚姻の届出をした。事件本人は三男信宗の出生後、精神病にかかり、昭和34年3月から同年6月まで堺市の000病院に入院した。
2 事件本人は昭和34年6月から同年12月までの約6か月間那覇市××で、申立人やその家族と同居し、申立人の扶養を受けまた申立人の負担で精神病の医療を受けた。
事件本人は同年12月相手方の許に帰つた。
3 事件本人は二女栄子が出生した後、再び精神病が悪化したので、昭和37年7月栄子を連れて、沖縄県の申立人の許に赴いて昭和38年7月まで約12か月間申立人方に滞在して、その扶養を受けた。事件本人はその間一週間程、精神病治療のために、那覇市△△所在の△△病院に入院し、同入院前及び退院後も通院して治療を受けた。その費用はすべて申立人が負担した。
4 事件本人は昭和38年7月相手方の許に帰つたが、昭和39年8月再び那覇市00×××番地上所在の当時の申立人方に来て、昭和42年8月まで同所で申立人の妻子と同居し、その後昭和44年7月、相手方の許に帰るまで、同市××の近くに事件本人の母光が間借したので、同所で光と共に暮した。その間通じて約60か月間申立人の扶養を受けた。また、その間事件本人の精神病が重くなつたので、事件本人は、申立人の負担で、昭和41年4月から約6か月間、××病院に入院し、その入院前及び退院後も通院して治療を受けた。
5 事件本人は昭和46年7月24日から昭和49年12月19日までの間、精神病治療のため、神戸市所在の△△サナトリウムに入院した。申立人はその入院当初から昭和47年9月末日までの入院費用を負担した。昭和47年10月1日以降は医療扶助を受けたので、申立人の立替費用はない。(申立人は昭和47年9月16日から医療扶助を受けた旨主張するが、△△サナトリウムからの回答によれば、事件本人が医療扶助を受けたのは昭和47年10月1日からであるから、申立人は昭和47年9月末日までの入院費用等を負担したものと認めるを相当とする)。
6 事件本人は昭和49年12月19日△△サナトリウムを退院後、直ちに、申立人肩書住所所在の申立人方に赴いて、同所に約3か月間滞在していたが、その後、事件本人の肩書住所の近くで間借して、同所に移転し、昭和50年5月以降は申立人が買受けた事件本人肩書住所々在の家屋に移り、同所で、母光と共に暮している。この間事件本人が申立人から扶養を受け、また医療費の支出を受けたのは、昭和49年12月から、昭和50年1月にかけての約1か月間で、それ以降は医療扶助を含む生活保護を受けるようになつた。
7 事件本人は何らの資産なく、また病身のため、昭和34年以降労働能力がなく、従つて収入能力もない。